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<title>研究計画草稿</title>
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<description>　今後の研究計画をまとめます。</description>
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<title>何故、今文学研究なのか？</title>
<description> 　ここで、何故今文学研究を行う意義があるのかもう一度自分で整理してみたい。　クレッチマーの性格類型によると、人間の気質は『躁鬱質』、『分裂質』、『癲癇質』の３つに分けられるという。　この現象は実は文章にも如実に反映されている。　つまりは『躁鬱質』の文章とは、云わば言ってみれば小説的な文章であり、波型の波動を持っていて、クライマックスもあるかと思えば単調とした部分も持っていて、云わば砂浜に寄せる波の
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<![CDATA[ 　ここで、何故今文学研究を行う意義があるのかもう一度自分で整理してみたい。<br />　クレッチマーの性格類型によると、人間の気質は『躁鬱質』、『分裂質』、『癲癇質』の３つに分けられるという。<br />　この現象は実は文章にも如実に反映されている。<br />　つまりは『躁鬱質』の文章とは、云わば言ってみれば小説的な文章であり、波型の波動を持っていて、クライマックスもあるかと思えば単調とした部分も持っていて、云わば砂浜に寄せる波のような時には凪ぎ、時には荒れ狂うといったような文章形式である。<br />　一方で『分裂質』の文章とはまあ一般的な形式の論文や哲学書などに見られるが、その最たるものは例えばデカルトやウィトゲンシュタインなどの文章であろう。殆ど数学に近いような文章形式である。<br />　また、『癲癇質』の文章とは新聞記事や雑誌等に代表的な情報の掲載方法で、これは私が新聞記者を経験した際に教えていただいたのだが、逆三角形の文章である。つまりは、一番最初に一番重要な事柄を掲載し、次に２番目に重要な事柄を掲載していくという風にである。つまりは効率的な伝達のために、インフォメーションの逆三角形が出来上がるのだ。<br />　私は幼少のころからやはり一番親しんできたのは小説であり、それは恐らく私の性格と最も近似的な文章形式だったからであろう。それと同時に論文や哲学書などにも親近感は存在していた。<br />　これはエニアグラム理論を当て嵌めるならば、私は躁鬱傾向ではあるが、分裂質的な思考を働かせるのはそれほど苦にならないというためらしい。詳しくはウィング理論を参照されたい。<br /><a href="http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/static/theory4.htm" target="_blank">http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/static/theory4.htm</a><br />　ちなみに『癲癇質』の長所である継続力、持続力は物事を完成させるために、十分に見習うだけの価値が存在するので切磋琢磨して習得していきたい。<br />　ここで考えた結果、映画などにも当て嵌まることだが、役者が最も演技を成功させることの出来るケースというのは、最も自分の性格と似通った役を演じるケースである。<br />　私がドストエフスキーの研究を行うという点では、その点で当たりであろうと考える。しかしながら、ここで考えなければならないのは、ドストエフスキーは作家であり、私は作家としての修行は積んでいないし、そのような環境にもなかったのでドストエフスキーの研究だけ行っていたのでは不十分である。<br />　研究を続けていくという点を考慮に入れると、例えばニーチェやバフチン等のような研究を行っていくべきであると考える。<br />　例えばニーチェなどもギリシャ文学から始めた研究者であるし、バフチンもまた、言語学から初めて最終的には研究の裾野を広げていった研究者だった。<br />　現在のポストモダニズム理論等によると、少しずつ旧来の枠組みというものは発展的に破壊されねばならないとしている。私もそれに同意している。<br />　と同時に今まで研究のテーマとして扱ってきた問題というものを否定するのも愚かな話である。それはそれで研究の研鑽の積み重ねが存在するのだし、それはそれで一つの自分の長所・基礎として活かしつつ、興味を持った様々な分野にチャレンジしていくという必要を感じている。<br />　 ]]>
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<dc:creator>桃井富範</dc:creator>
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<title>今後の課題・意見を掲載（皆様有難うございました。）</title>
<description> kaさん帰北されるのは、もう決定事項なのでしょうか？ 研究自体は、今のネット社会ではどこでも可能なはずですから、その意味では東京にこだわる必要はないと思うのですが。 いずれにせよ、研究者として自活するのを目指すというのは長い道のりですので、十年計画で気長にやってください。（私自身、今の生活をあと五年は続ける覚悟でいます。）それでは、こちらこそ今後ともよろしくお願いします。kaさん＞桃井さん 修正作業お疲
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<![CDATA[ kaさん<br />帰北されるのは、もう決定事項なのでしょうか？ 研究自体は、今のネット社会ではどこでも可能なはずですから、その意味では東京にこだわる必要はないと思うのですが。<br /> <br />いずれにせよ、研究者として自活するのを目指すというのは長い道のりですので、十年計画で気長にやってください。（私自身、今の生活をあと五年は続ける覚悟でいます。）<br />それでは、こちらこそ今後ともよろしくお願いします。<br /><br />kaさん<br />＞桃井さん <br /><br />修正作業お疲れさまです。お返事が遅れて失礼しました。ウェブ上のデータはいつでも修正が利きますので焦る必要はないとも思うのですが、いずれに せよ細かい点に拘泥するのに慣れておくのは大事ですね。自分の書いたものの一字一句に神経質なまでに気を遣うことは、アカデミズムの枠内でやっていく上 で、どうしても必要になるものですから。（どれだけ気をつけていても、なぜか誤字脱字は必ず残ってしまうものなのですが） <br /><br />『カラマーゾフ』の作中に描かれている金銭の《贈与》のモチーフと、ドストエフスキーにおける《神》の問題のあいだには接点があり、それはバタイ ユの贈与論を手がかりに浮き彫りにすることができる…というのが、桃井さんの修士論文のベースにある直感であったのでしょう。おそらく、その直感は正しい だろうと私は思います。 <br />その正しさを論文という形でよく証明するのは、もちろん大変なことです。議論に十分な説得力をもたせるためには、多分ドストエフスキーとその時 代についてのデータをさらに収集し、それを徹底して論理的に組み上げていく作業が求められそうです。ただ、根底にある自分のオリジナルの直感そのものは一 種の財産ですから、大切に温めていれば――何年かかるかはともかく――いずれ実を結ぶでしょう。諦めの悪さが肝心です。 <br /><br />桃井<br />　ご無沙汰しておりました。ところで、ドストエフスキーのСтарая Руссаでの生活とその生活がドストエフスキーの創作に与えた影響についてはЛ.М.Рейнусが大家であろうという気がいたします。彼の著作としま してはДостоевский в Старой Руссе.やТри адреса Ф.М.Достоевского等があげられるわけですが、詳しくは後ほど私のホームページに要約を掲載したいとは思っていますが、ざっと目を通した限 りでも、イリンスキー通りや、ドミートリー通りなるものが存在し、現在は残ってはいないようなのですが、ドストエフスキー（高等）学校なるものまで存在し たようです。Старая Руссаはドストエフスキーの創作と分ち難く結びついているようですね。カラマーゾフの兄弟に登場するСкотпригониевск村はСтарая Руссаであるというのは有名なエピソードですが、そのほかにも様々な出来事があげられそうですね。詳しくは後ほど私のホームページに要約を掲載したい と思っております。 <br /><br />ホモ＝サケル―主権権力と剥き出しの生<br />　 桃井 富範 　 06年04月22日23時00分<br /><br />　＞佐藤さん、 <br />　これは、私が院生の頃に読んだジョルジュ＝アガンペン著の書物の名称であります。　「タイトルにある「ホモ・サケル」は「聖なる人間」と直訳で きる言葉だが、著者はこれを「剥き出しの生（＝主権権力の外に位置する者）」という意味に敷衍（ふえん）し、収容所や安楽死といった困難な課題へと立ち向 かおうとする。直接の着想源としてはフーコーの「生政治」、シュミットの「例外状態」、アーレントの「全体主義」などの諸概念などを指摘しうるが、著者は ここにカフカの「法」やバタイユの「供儀」、さらにはベンヤミンの「暴力」などについての検討をも加え、緻密な参照関係のもとに「政治的な生」と「生物学 的な生」の区分を分析していく。その鋭い洞察は、歴史的な奥行きを感じさせると同時に、「9.11」やイラク戦争という喫緊の現実に対しても有効であるに 違いない。」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4753102270/250-5347039- 9927448より抜粋 <br />　つまり、人間というものの特徴を他の動物と区別する上でも、「権力を志向する生き物」だとして捉えなおしたのがこの著書でありますが、確か作者はもともとギリシャ文学の研究者であったということを記憶しております。 <br />　この点について言うならば、一重に捉え方次第とも言えなくもないとは思います。つまりは、権力志向は、向上心とも言えるものであり、その源泉が 果たして何であるかなどという問題（これだけでいくつも論文が書けてしまえそうですが）とは別にしても、これまでの人類の繁栄の源となったものであること は間違いないといえるでしょう。 <br />　しかしながら、栄光の歴史は同時に闇の歴史をも抱えているというのが世の常でありまして、やはりこの権力というものの根底にある自らの支配力の獲得を得るための生々しい闘争というものが多くの犠牲を出してきたということも間違いのない事実でありましょう。 <br />　人が人を裁くという行為自体に何か納得しきれない矛盾ｂ｢ということ）を各人がしっかりと把握した上で、バランスの取れた倫理観を維持するということが各人に求められているのではないでしょうか。 <br /><br />ドストエフスキーに関連したロシアにおける裁判制度に関する文献について<br />　 桃井富範 　 06年04月24日22時12分<br /><br />＞田中さん、 <br />　私は陪審制度に関する詳しい知識など微塵もありませんので、陪審制度に関するお話を興味深く拝読させていただきました。 <br /><br />　その中で、私の観点によると、裁判制度の是非の問題もさることながら、ドストエフスキーの時代の裁判制度（ドストエフスキー自身がぺトラシェフ スキー事件に連座して実際に裁判を受けていますね。）や、作品内で登場する裁判制度について深く研究することで、当時の時勢や風潮、また、裁判制度そのも ののあり方について新たなる角度から浮き彫りにすることができるのではないかと思いつきました。 <br /><br />　本格的に研究しようとなると、原書（ロシア語）に当たるのが最も良かろうとは思われますが、日本語での著作を調べてみると、２冊ほど関連があろうかと思われる著書を見つけることができましたので、紹介しておきます。 <br /><br />　ロシアの陪審裁判 / 小森田秋夫 [著]. - : 東洋書店 2003.10. - (ユーラシア・ブックレット / ユーラシア・ブックレット編集委員会企画・編集 ; No.53). <br /><br />　ドストエフスキー裁判 / N・F・ベリチコフ編 ; 中村健之介編訳. - 札幌 : 北海道大学図書刊行会 1993.11. <br /><br />　私見によると、『カラマーゾフの兄弟』の中で行われた裁判制度についての研究を起点として、当時のロシアの裁判制度と、他国との差異について、 そしてそこから裁判制度そのもののあり方についてというように論を展開させ、膨らませていけば論文一本執筆出来てしまえそうな、興味深いテーマのように思われます。 <br /><br />ドストエフスキーと精神医学<br />　 桃井富範 　 06年05月01日19時06分<br /><br />　田中さん、御質問ありがとうございます。 <br />　 <br />　ドストエフスキーの著作につきましては、一言で申し上げて調査可能です。というのも、Л.П.Гроссманと言う研究者が Семинарий по Достоевскому. М. Петроград. Госдарственное издательство. 1922.の中でドストエフスキーの蔵書目録を作成しているからです。この研究書については是非コピーでも構いませんから入手することをお勧めします。近 くの大学などでドストエフスキーを専攻されている研究者の方などに交渉してみれば比較的容易に入手できるのではないでしょうか。 <br />　 <br />　そこで早速調べてみましたところ、残念なことにクレペリンとピネルに関しての蔵書は存在しないようでした。しかしながら、蔵書が存在しないから といって、ドストエフスキーが全く精神医学と接触がなかったと言うことはありえないでしょう。というのも、近年発刊された中村健之助教授の著作でも明らか なとおり、ドストエフスキーは睡眠薬を愛用していたようですし、作品内にも精神医学や催眠に関する記述が存在します。 <br /><br />　つまりは、我々が実際そうであるように、蔵書としては持っていなくても、例えば俗な話ですが立ち読みや、他の人々（知識人たちや当の医師たちから）直接聞くなどの形でドストエフスキーが精神医学に関する知識を持っていたことは間違いないと私は思っています。 <br />　 <br />　論文などで言えば、ちょっと探してみましたが、例えば <br />Holy foolishness : Dostoevsky's novels & the poetics of cultural critique / Harriet Murav. - Stanford : Stanford University Press 1992. <br />　等では恐らくそこらへんの情報に触れられているかもしれません。 <br /><br />　しかしながら、精神医学という点に関しては、私が現在思っているのは、ドストエフスキーは人間の奥底に潜む暗い、社会的ではない、非常にネガ ティブな側面と言うものを病気として治療や矯正の対象として捉えていたのではなくて、ソドムの理想とマドンナの理想の両者を肯定したように、人間の善性と 共に礼賛しているという姿勢をとっている（こと、最後の作品である『カラマーゾフの兄弟』においては）のであり、その人類に対する精神的な包容力の広大さ こそが現在においてもドストエフスキーに対する根強い支持が存在する源ではないかと私は考えております。 <br /><br />続・ドストエフスキーと精神医学<br />　 桃井富範 　 06年05月02日18時29分<br /><br />田中さん、 <br />　 <br />「精神医学に関する知識が欠如していた」という田中さんの推測の一つに関しては、私は当て嵌まらないと考えています。精神医学においては、例えば 自殺者とうつ病といった例でもお分かりのとおりに、死を志向する精神状態を「鬱」と定義づけ、それを「病気」として定義づけ、改善する、つまりは死を志向 しない状態に移行させるというのが、例えば医学的な目的であるならば、ドストエフスキーは（あるいは文学そのものに当て嵌まるでしょう）、その状態を、登 場人物達の精神的な自らとの戦いと位置づけています。 <br /><br />　この件に関しては <br />http://www.geocities.jp/momoitominori/ronbunzenbun.html <br />に私が執筆しました「境界を超える文学レポート」における内言が鍵となってくると思います。 <br /><br />　いうなれば、「若きウェルテルの悩み」の主人公が病気であると断言するだけの権利が医学に存在するかという点なのです。「若きウェルテルの悩 み」然り、「カラマーゾフの兄弟」然り、霊と肉の戦いに苦しむ人間の内的側面と言うものは各個人でしか経験しえません。というのも、その内的闘いの形式は 常に内言の形式をとっているからであり、このような闘いは文学作品などの形式でしか表現できない、つまりは通常第３者には理解できないのです。 <br />　 <br />　そのような人間の、まさにこれこそが動物と人間とを隔てている人間の気高き内的葛藤を病気として、健康の対義語であるような一種の差別的状況に位置づける傲慢さを人間が人間に対して持っていいものかと私は現在怒りすら感じているわけです。 <br />　 <br />　まあ、それはともかくとして、「精神病のレペリレーチェ先生の病院へ」という箇所についてですが、Ф.М. Достоевский Полное собрание сочинений в тридцати томах. глав.ред. В.Г. Базанов. Ленинград. 1972-1990.にその場面に関する注釈が存在するか調べてみましたが、存在しませんでした。ロシア語ではЛе-пель-летьеとあります（文 脈から察するにフランス人の呼び名ですね。）が、ひょっとすると田中さんのおっしゃったとおり、ドストエフスキーお得意の『もじり』の１つであるかもしれ ませんね。仮説として提唱してみると謎解きっぽくて楽しいと思います。 <br />　 <br />　御質問ありがとうございました。 <br /><br />今後の課題として<br />　 桃井富範 　 06年05月03日14時22分<br /><br />　田中さん、 <br />　 <br />論旨といたしましては、つまりは医学という聖職に出すら治療する側と治療される側という二項対立構造が存在し、こと精神医学というジャンルに起き ましては、治療する側（主に医療関係者＝健常者）と、治療される側（病人あるいは狂人）という権力構造が発生するわけですから、このようなことはあらゆる 事柄において発生しうることではあるのですが、多少の皮肉りとあらかじめ警鐘を鳴らしておきたかったというのが狙いであるわけです。 <br /><br />　実を言いますと日本の法律では精神保健指定医２人の同意が存在し、一定の手続きを経たならば入院の強制力を持つという法律が存在します。詳しくは <br />http://www.health-net.or.jp/kenkozukuri/healthnews/010/060/c5042/index.html <br />等をご覧下さい。 <br /><br />　このような体制はある程度の必要性に基づいて行われているものだということは否定しませんが、ナチズムに陥る危険性は否定できないわけです。なぜなら、完全な人間など世の中にいないのですから。 <br /><br />　それはともかくとして、私としても興味の対象であるので、今後ドストエフスキー作品（主に論文の対象である『カラマーゾフの兄弟』を中心として）以上のような問題に取り組んでまいりたいと思います。 <br /><br />　方法としては、①ドストエフスキー作品から関連する箇所をピックアップ②その中から研究の対象を選定③当時ロシアの状況を調査④他国（主にヨー ロッパ地域などとの比較）⑤ポストモダン思想などを有効活用し、論を構成⑥現在における問題などへの言及や研究の可能性を探る、といったところでしょう か。是非とも今後の課題とさせていただく所存です。 <br /><br />　御意見どうもありがとうございました。 <br /><br />追伸<br />　 桃井富範 　 06年05月03日14時54分<br /><br />　私がこのような問題をお話した理由も、仔細色々あるのですが、その一つとしてロシア語の特徴というものがあげられます。 <br /><br />　というのも、ロシア語は名詞が２４通りに変化し、動詞も６通り、形容詞も２４通りに変化するという特徴を持っており、それがロシア語を難解たら しめている大きな理由である一つだということは否定しないのですが、このような言語の特徴は、例えば日本語を母語とする私たちとしては奇妙どころかほとん ど異常な出来事ですらあります。私も最初はそうでした。 <br /><br />　しかしながらそのような異なる言語を話す人々の集合体で人類というものが構成されている事は事実であり、裏を返せば、漢字、ひらがな、カタカナを混合して用いる日本語を難解で異常な言語だと感じている人々も世の中には恐らく多かろうということなのです。 <br />　 <br />　ロシア語の特徴として言語が変化する（分裂するという言い方でもちょっと極端かもしれませんが、それほど間違ってもいないでしょう）言語を操っ ている人々にとっては、そのような思考法が当たり前のものとして身についていても不思議なことはありません。そのような思考法を異常なものとして拒否して しまうことは愚かしいことだと思います。人を憎めば穴二つということわざがありますね。 <br /><br />　このような言語状況を把握し、理解する心の広大さこそが人類に求められているのではないかと思います。実を言うと、私の祖母も従軍で以前サハリンに住んでおり、軍機の機関銃で威嚇射撃を受けながら、命からがら逃げ帰ってきたという過去があるのですが… <br /><br />出来る範囲でお返事を…<br />　 桃井富範 　 06年05月03日19時56分<br /><br />　「精神病学者は自殺を鬱病の発作と考え、社会学者は老人に或いは若者に過酷な競争社会が原因と言い、文学者はその心理内面の苦悩を追います。」という田中さんのご発言は非常に的を得ているのではないかと思います。小説か何かで引用できそうな華麗なご発言ですね（笑）。 <br />　 <br />　しかしながら、学問分野の区分というものは勿論ありますが、同じ人間が行っている研究である以上、全ての分野には連環性が存在し、相互作用、相互影響性が存在する…これが最近のポストモダン思想の大きな潮流であることも間違いありません。 <br /><br />　確かに得手、不得手というものは存在しますね。私にしましても、例えば「若きウェルテルの悩み」にしろ、キルケゴールが婚約を破棄したという事 件にしろ、例えば彼らが自らの霊的なイデア的理想論と、進化論的な子孫繁栄の自らの動物的欲動との桎梏に苦しみ、なおかつそこに恋敵などいようものなら、 彼らに対する配慮などが混ざり合い、無数の内言を構築して、最も理性的な結論として、自らの死を選択する…などといった、見る人から言わせれば少々夢物語 的な内面世界の描写に走ってしまう傾向が存在することは否定いたしません。 <br /><br />　しかしながらこの点などにしましても、真剣に「不妊治療や子作り」について研究している人がまたいるのだから世の中とても面白いものだと最近は感じているのですが…。 <br /><br />　「医者と患者の関係を権力関係で見るのは、過剰と考えます。」とありますが、確かに私の意見は極論だということは認めますが、しかしながら国家 が今までに多くの過ちを犯してきたということは歴史上の事実です。全員が全員過敏性の人間ばかりではいささか住み辛い世の中になってしまうかもしれません が、幾分かはそのような人間が存在してもいいのではないかと私は考えます。このような意味からいいますと、確かカオス理論だったでしょうか、まあ、それを 用いるまでもなく、「権力はすべからく腐敗する」という言葉がありましたが、社会的正義をつかさどるはずの警察内部でも不正事件などは実際に現在起きてい ます。人間の成し得ることには限界があるのは当たり前です。まあ、このような例えば国家の不正などを防ぐための最も効果的な方策としては外圧があげられま す。ドストエフスキーを研究する利点の1つでもあろうとは思いますが。 <br /><br />　例えばインターネットにしろ、もともとアメリカが軍事用に開発したシステムではありましたが、私見によるとその思惑がどうであったかは存じませ んが、高質の情報を世界中に行き渡らせたことによって現在むしろ平和的に利用されるということもありますので、そこの辺りは非常にデリケートな問題ではあ ります。 <br /><br />　田中さんの「法学的見地からスタヴローギンの犯罪を書こうかという発想」につきましては、人間得手不得手というものは誰しも必ず持っているもの ですね。私にしましても、こんな小難しいことはペラペラと喋る事は出来ますが、家事が苦手だったりと、やはり得手不得手というものは皆あるようです。 <br /><br />　この点につきましては、殊研究に関しましては自らの不得手な面から研究を行ってもほとんど得るものはありませんので、自らの最も得意とするアプローチで分析されることをお薦めいたします。 <br /><br />　御質問ありがとうございました。 <br /><br />性描写の問題について<br />　 桃井富範 　 06年05月08日21時05分<br /><br />エリザベートさん、 <br />　「女というのは、別に愛していないとおりすがっただけの男にでも「魅力的な女性」と感じてもらいたいと思っていたりします。」というのは非常に 奥深い一言ですね。これは男性には出てこない一言であり、よしんば男性がそのような事を口にしても殆ど全く説得力のない一言でありますので、素晴らしい解 説ですね。このような批評を少々かっこつけて名づけると『ジェンダー批評』ということになるのでしょう。是非ともこの調子で名言を残されることを期待して おります。 <br />　さて、性描写の問題につきましては、これは立派な研究対象となるものですね。確かにドストエフスキーの描写ではそれほど明確な性描写は存在しませんね。 <br />　しかしながらこのような性描写というものは、青春時代の登場人物の自我意識さえ上手に描けているものならば立派な芸術の１つとして成り立ちうる ものだと思います。しかしながら、ここらへんをただのエロ小説としてではなく、青春の自我意識の恥じらいと欲動との葛藤という主題で上手に描き出すことの 出来た作家と言うものは殆どいないようにも感じます。とても高度な技術が必要だと思います。かなり興味深いテーマですね。 <br />　これは文学テーマの１つとして取り上げられていいのではないかと思いますし、どうせ人生と言うものは一度しか各々に与えられていないのですから、このようなテーマでいかに美しい作品を構築できるかという挑戦の意味で、小説を書いてみたくすらなってしまうテーマですね。 <br /><br />続・性描写の問題について<br />　 桃井富範 　 06年05月09日17時26分<br /><br />　「交接行為およびそれに用いられる器官はあまりにも醜悪なので、もし容貌の美しさとか、それに関わる者たちが装おう装身具、そして抑え難く迸る勢 いがないとすれば、人間は自然界から失われることであろう。」とはレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉ですが、人間が持つイデアの美しさとは裏腹に自らの持つ 生殖器のおぞましさに身を切られるほどの嫌悪感を感じるということはひょっとすると誰もが感じることのある経験なのかもしれませんね。 <br /><br />　まあこのテーマに関する著作は比較的たくさん世に出されているようですが、代表的なものの１つとして <br />　性の歴史 / ミシェル・フーコー著. - 東京 : 新潮社 1986.9-1987.4. <br />　等が挙げられると思います。 <br />　 <br />　このような霊と肉との２律背反は古来から多くの賢人を悩まし続けてきた永遠のテーマの１つともいえるものであり、アポロン的欲動とディオニュッ ソス的な欲動といっても可能でしょうし、ソドムの理想とマドンナの理想、エスとイドとして古来から様々な言葉によって紡がれてきた言葉です。 <br />　 <br />　このような意味において、『カラマーゾフの兄弟』におけるモークロエ村の場面はこのような２項対立的な概念をカーニバル的世界観の中で融合したと言う意味で素晴らしいシーンだと言えるでしょう。 <br />　 <br />　しかしながらこの場面においても性描写についての言及は最小限にとどめられていることは間違いありません。 <br />　 <br />　これは非常に難しいテーマだとは思いますが、日常性の中にいかにエロスを持ち込み、人間の最もグロテスクな外観である生殖器を用いる場面におい ていかに神秘性を現出させるかというところに物語を紡ぐ者達（それは作家など一部の人間に限ったことではないとは思いますが）の使命が課せられているよう にも感じます。 <br /><br />愛に関する補稿<br />　 桃井富範 　 06年05月10日01時08分<br /><br />「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。」ニーチェ『善悪の彼岸』第４章 <br />　カテリーナとドミートリーとの関係性において、この箴言が何かピンと来るような気がします。カテリーナとドミートリーとの恋愛関係は愛というよりも、むしろポトラッチのような贈与競争に近いものとして私は捉えています。 <br />　これもバランス理論などを考えると、両者の関係性にインバランスを見出し得なかった結果なのかもしれません。 <br />「愛と憎しみは、まったく同じものである。ただ、前者は積極的であり、後者は消極的であるに過ぎない。」ハンス・グロース「犯罪心理学」 <br />　ちなみに私の私見では、ドミートリーはロシア版バルザックのような人物だと思います。 <br /><br />　アリョーシャとグルーシェンカの間に起こった出来事をスメルジャコフさんの解釈などを考慮に入れるとしても、私は <br />「男女間の友情は、それが本源的な感情である限り不可能です。」Ｄ・Ｈ・ロレンス <br />の言葉の真実性のほうに軍配を挙げてしまうかも知れません。 <br />　私は続編におけるアリョーシャが断頭台に上がるという結末をドストエフスキーが構想していた理由を、男女の関係に関する限界の自覚の欠如に求めたのではないかと予測しています。 <br /><br />　ドミートリーとグルーシェニカに関していうならば、 <br />「愛したい思いを抑えるために自分の心に加える強制は、しばしば、愛するひとのつれなさよりも辛いものである。」『ラ・ロシュフコー箴言集』がピッタリとくるのではないかと思います。 <br />　ちなみに、モークロエ村の場面に関する女性の批評は現在のところ全く目にしたことがないので、読んだことのある方は是非批評をお願いいたします。 <br /><br />　最後になりますが、 <br />「多情の女は物狂いの果てに尼になり、のぼせやすい男は思いつめて仏道にはいる。かくして神聖なる寺院が、いつもふしだらな女やよこしまな男共の集まる巣窟となる。」 <br />洪自誠『菜根譚』 <br />　経験によりますと、文学部の大学院なんてところは基本的にはこういうところだと思います。 <br /><br />ドストエフスキーと外国語<br />　 桃井富範 　 06年05月14日20時21分<br /><br />　ラテン語はある程度の教養は持っていたと思います。そもそも、キリル文字もアルファベットの１つでありますから、両者はそこそこ類似性があったと思われます。 <br />　例えば、現在の私たちが中国語を見ると、完全には理解できなくとも、何となく何についての記事か想像がつくように、方言に近いようなところがあったと思われます。 <br />　ギリシャ・ラテン語然り、フランス語ドイツ語然り、英語然りです。 <br />　その中で当時のロシアにおいて英語を学ぶということが現在の日本において英語を学ぶと言うことほどの重要性があったかどうかというと、私は少々疑問に感じています。 <br />　日本は島国ですが、地続きの近隣国であれば、いつでも争いなどの危険がある。つまりは知っておかなければ危険だというくらいの危機感があったのではないかと思います。そういうことで優先順位的にフランス語やドイツ語を学んでいたのではないかと推察します。 <br /><br />お久しぶりです<br />　 桃井富範 　 06年05月24日21時19分<br /><br />　しばし、長考しておりましてご無沙汰しておりました。 <br />　先日『精神医学の権力―コレージュ・ド・フランス講義　一九七三‐七四年度 [原書名：Le pouvoir psychiatrique : Cours au Coll´ege de France 1973-1974〈Foucault Michel〉 ] 』　ISBN4480790446 ４６９，４ｐ　２１ｃｍ（Ａ５）筑摩書房 (2006-02-10出版) ・フーコー，ミシェル【著】〈Ｆｏｕｃａｕｌｔ，Ｍｉｃｈｅｌ〉・慎改　康之【訳】を入手。 <br />　内容はフランスにおける精神医学を脱構築的に論じる…暴露本的性格を帯びている一冊ではあります。　 <br />　確かに精神の医者といってもＷＨＯの区分（？）などに従って客観的な分析を行っているに過ぎず、そのカテゴリーに入る人間を区分けしているに過ぎないのではないかという批判は間違いなく免れえないでしょう。 <br />　ここで重要なのは、内言の問題であり、この内言に対する理解がないために客観的に異常に見えてしまうということが間違いなく考えられます。幸いにして、現在の技術では、個人個人が自らの意見、論説、内面を吐露するためのコンピューター技術が備わっております。 <br />　私見によると、文学の方向性も、単なる小説の解釈、翻訳の技術から、自らの内言吐露の技術、方法や、思考法の開拓へとこれから徐々に進化していく、いや、させていきたいと思っています。 <br /><br />ドストエフスキー研究概観<br />　 桃井 富範 06年06月04日16時06分<br /><br />　どうも、お久しぶりです。皆さん、有益な意見交換をされているようですね。 <br />　 <br />　ドストエフスキーと英語についてですが、確かにドスト氏が専門的な英語の学習を行ったかどうかについては少々疑問符がつきますが、キリル文字も アルファベットの１つですから、語族的な類縁関係という点でも、比較的ニュアンスは把握できていたのではないかと推察しております。　 <br /><br />　ドストエフスキー研究を概括的に俯瞰すると、当然ながらロシアでの研究は本場ですからとても盛んです。やはり、地元ならではの情報と言うのも あって、さすがこれはロシア人研究者でしか研究できないだろうなと言う論文も数多く存在します。バフチン等はその代表的な一例でしょうか。まあ、ドストエ フスキーの多重テクスト性に対するバフチンの研究などは、クリスティヴァや、ジェネット等にも大きな影響を与え、現今のインターテクスチュアリティ研究の 源流ともなっています。しかしながら、文学研究者の癖のようなもので、文章がとても難解なのが玉に瑕ではあります。これはロシア語だけではなく、一部の英 語論文も同様です。 <br />　 <br />　それと、冷戦時代のアメリカのドストエフスキー研究もずば抜けています。冷戦状態を脱してからはそれほどの話は聞いてはいませんが、しかし１９３０年台位から１９９０年位にかけてはとても高質な論文・著作が次々と発表されていました。 <br />　 <br />　日本でも江川卓氏などが、大変興味深い著作を発表されています。 <br />　 <br />　私が現在注目しているのは、モダンあるいはポストモダン期の作家、思想家らとの影響関係ですが、特にフランス・ドイツ哲学との影響性は興味のあ るものの一つです。ドストエフスキーに対する言説は少なからず存在するのですが、複合領域的な研究のために、あまりそこの分野に着手している研究者の方は いらっしゃらないようなので、まずは邦訳からででも、ドストエフスキーに関するデータベースを作っていくと楽しそうです。 <br /><br />　広い視野で文学と文学、心と心、人と人との相互影響性を探っていくのは胸躍る知の冒険です。 <br /><br />文学とは詰まる所、人間の学なのではないでしょうか<br />　 桃井 富範 06年06月04日16時30分<br /><br />　文学と言うものは文字で記述されています。文学研究史においては伝記研究というものは１つの分野として確立されていたと思います。つまりは作家そのものの研究です。 <br />　 <br />　それとはまた別個に比較文学という分野も存在しました。様々な文学作品の相互連関性を探っていくという学問です。 <br /><br />　このような学問が発達し、ある一定の行き詰まりに来ると、今度はそれらを融合した形で学問が形成されていく…つまりは作家の実人生やその交友関係や読書や、あらゆる側面からの作者への影響性を探っていく。 <br />　 <br />　更には、作者からの他者への影響性を探っていくというものです。 <br /><br />　ロラン=バルトの言葉で確か「作者の死」という言葉がありましたが、文学作品はその完成から作者の死を経て、テクストそのものとしての生命を持つに至る、と言うようなものだったでしょうか。 <br /><br />　その論理も勿論そのとおりであり、作者の完全な情報を読者は持っていない上に、文学作品の醍醐味である感情移入というものが加わりますから、読 者においてテクストの持つ解釈が変容する、ということです。このようなことは普遍的に見られる現象だと言っても過言ではありません。 <br /><br />　しかしながら、それにもかかわらず、書き手から読者だけではない広い相互影響性は間違いなくあり、作家とその作家の作品を分けて論じると言うこ とは現在かなり無理が生じていると言わざるを得ないでしょう。しかしながら、そのような手法で研究・論文執筆・批評などを行う場合においても、一定の紳士 的なデリカシーを維持し続ける必要性は存在するでしょう。 <br /><br />治癒という名の権力システム構造<br />　 桃井 富範 06年06月07日03時37分<br /><br />　超越的所記 transcendental signified（デリダ）―ある特別な言語体系のために中心を提供する記号。中心として、それは安定性、存在、そして単一の透明な意味を促進させるの だが、それというのもそれ自身の意味は、他の如何なる記号にも依存しないからである。「神」「正義」「真理」といった記号は、このように機能する。こう いった「超越する記号」がなければ、宗教、法律、哲学のような、論証に拠る体系の伝統に則した概念は、一貫性の欠如と中心となる用語が欠けているせいで崩 壊してしまうだろう。デリダは、記号はそのような立場には決して至り得ない。何しろ、記号は全て他の記号との関係の中で意味をもつのだから、と主張する。 これを実証する作業が、西欧思想の伝統となってきた領域を彼が脱構築する大きな部分を占める。（グレアム・アレン著、森田孟訳、『文学・文化研究の新展 開：間テクスト性』、研究社、２００２年、P２６９） <br />　 <br />　これは最近の私の最も愛するフレーズですが、この観点から見ると、医学と言うものは健康という概念を取り巻く権力システムだと定義づけることが 可能でしょう。その中において、治癒行為というものは、贈与行為ですから、「繰り返して行われる一方的なサービスの供給は権力の源泉である。というのも、 そのような供給は、それに品物で返礼できない人々を義務付けて、供給者の願望に従うことによって彼への義務を果たさせる」（ブラウ）という贈与者の社会的 欲望充足行為に帰結する可能性が高いのです。大空さんの仰られるようにそこらへんの権力システム構造についての記述はフーコーなどに詳しいようです。 <br /><br />　まあ、そこらへんの毒々しい議論については、例えば <br />http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1121071258/l50 <br />などを参照下さい。 <br /><br />　しかしながら、健康とはいったい何なのでしょうか？ロボットのような人間が健康なのでしょうか？ある権力システムが奴隷を欲しているに過ぎない のではないかという疑念が生まれてくるのです。さらに、精神医学が司法や行政などのシステムとリンクして権力構造維持システムの１つとして機能していると ころになんとも形容しがたい恐怖があるようにも感じます。 <br /><br />　まあ、そこらへんに尽きましては私のレポート <br />http://www.geocities.jp/momoitominori/report.pdf <br />に記述していますので、御一読下さい。 <br /><br />　まあ、しかしながら、このような問題はまた、形こそ違えど文学や人文学も抱えている問題でもあります。日本でも、最近はニューヨークなどのよう にメンタルクリニックに受診することがステータスの１つとすらなりつつあるというような、医師側にとっても患者側にとっても明るくなるような傾向もありま すし、私の実感としては、完全には到達はしないが、確実に問題は改善されている…とでも申し上げておきましょう。 <br /><br />　私自身として最も興味があるのは、文学の大きな主題として取り扱われる「愛」という主題が、進化論的闘争、あるいは他者の疎外の感情を生み出 し、その感情と利他的な信仰心との相克に苦しみながら選択に苦しみ、狂気の境界で吐き出される登場人物の内言です。この点に関しては恐らくドストエフス キーと言う作家は世界でも類を見ない能力を持っており、それは恐らく彼自身が実際にそのような苦悩の経験を経ていたからであろうと思います。以前にも恐ら くお話しましたが、このような内言の苦しみは、他者からは通常理解不可能ですので、現在の発達したテクノロジーなどを駆使して自らの内言を他者に伝達する 技術というものが必要であろうし、そのような点においては、文学という分野はかなりの範囲で寄与できるのではないかと思います。 <br /><br />記号論的権力構造分析<br />　 桃井 富範 06年06月07日19時56分<br /><br />　大空さん、いつもながら多彩な知識を活かしたご発言、拝読させていただいています。 <br /><br />　私の述べた論は極端といえば極端な例ではありますが、例えば平和という概念によって結合しているコミュニティがあったとします。その集団におけ るコモンセンスは平和でありますから、そのコミュニティ内においては平和至上主義的な社会が形成される。そうなると、それで得るものも多いでしょうが、建 設的な競争などによるプラスの側面がないがしろにされるという危険性が登場してくるのです。 <br /><br />　また、例えば利潤獲得のみを念頭においている企業というものを例に挙げてみると、利潤獲得共同体としての企業は、利益獲得という点においては非 常にスマートで高い成果を挙げるでしょうが、そこにかたよりすぎると今度は倫理的な点において問題が生じてくるという危険性が生まれます。実際そのような 問題は歴史上何度も起きている問題です。最近の株を巡る一連の騒動などが代表的な例です。 <br /><br />　また、例えばスポーツなどにおいて勝利共同体というものが生まれたとします。このコミュニティにおいては勝利するというコモンセンスによって人 が結合するわけですが、このようなコミュニティにおいても勝利を目的とするあまり、別個の問題が生じる可能性が高い。高校野球における体罰問題などが代表 的な例です。 <br /><br />　また、享楽をその目的とするコミュニティーというものが存在しても、刹那的な快楽ならばそれに勝るものはないでしょうが、将来的な見通しという点で絶望的であります。酒池肉林などの故事が（すぐにこの国家は滅亡してしまいましたね）証明しています。 <br /><br />　このようなことで、ある1つの概念に固執するコミュニティというものは、それに相反するコミュニティを許容できないという点や、ある1つの概念 に執着するあまり、他の部分が疎かになるという点で実は弱点をも内包しているのです。このような意見が医学や文学、法学など全ての分野においてもまた当て 嵌まるでしょう。kaさんがついこの間、文学部という閉鎖社会における病理構造を分析した著作を紹介していましたね。 <br /><br />　ただ、大空さんの意見と、根はあまり変わらないでしょう。簡単なカオス理論の応用ですが、閉鎖された空間というものは秩序の崩壊（あるいは外界との摩擦を生ずるような逆説的秩序の構成）が容易に起きやすいということです。 <br /><br />　「視野を広く持て」、とはつまりは秩序の維持（あるいは逆説的流動性）のためには、よりマクロ的な視野を持たねばならないというニュアンスで使用されている言葉なのかもしれません。 <br /><br />田中さんへ<br />　 桃井富範 06年06月08日20時25分<br /><br />　昨日は多少の酩酊のために、駄文を失礼しました。 <br /><br />＞ドストエフスキーの蔵書から彼の読んだ著作を判断するのは困難と考えます。 <br />というご意見は一理あるといえばあるでしょうが、研究者たちの地道な研究によって調査された研究であるので、重要な参考資料であることには間違いないでしょう。 <br /><br />　ドストエフスキーがどういう書物を読み、どの作家から影響を受けたかという問題については、ドストエフスキーの作品から判断するのが最も妥当であると思います。比較文学研究、起源研究等がそれであり、沢山の論文があります。 <br />　私の研究対象である『カラマーゾフの兄弟』で言うと、聖書（これは言うまでもありませんが）、シェイクスピア（カラマーゾフという概念はある程 度ハムレットに対する対抗心から作られた言葉です）、シラー（ドミートリーの詞に引用されています）、ヴォルテール（カンディードの主題とのプロットの類 似性）等が明らかであり、文学に通暁している人間が読めばほくそ笑んでしまうような多重テクスト性にこそがドストエフスキー文学の真骨頂でしょう。 <br /><br />＞患者と医者の関係に「権力」を持ち出すことに違和感があります。 <br />　とありますが、まあ確かに誇張された表現であることは否定しません。医者の側からしても高邁な意志を持ってして治癒行為を行っているわけでしょうから。 <br />　 <br />　しかしながら時には、そのような贈与行為が被贈与者の生を圧迫するというケースが往々にして生まれるということに警鐘を鳴らしたかっただけです。 <br />　 <br />　全ての人間がある程度の自己悪的な側面を持って生まれ、生きているのですから、そこら辺を忘れてはいけないということです。 <br />　 <br />　ちなみに最近思うのが、やはり文学の文学たる所以は内面描写にあるということです。他者の内面を知るということは一般的社会生活ではあまり必要 とされてはおらず、ビジネスなどの世界ではむしろ邪魔なものとして取り扱われるくらいですが、人間の内面の苦悩こそが人間を崇高たらしめると思っておりま す。 <br />　 <br />　そのような意味で文学が世の中から消えてなくなるということはまずないでしょう。 <br /><br />桃井さん<br />　 田中駢拇 06年06月14日11時18分<br /><br />封建制とは、一国を幾つかの地域（これを支那では封と呼び、欧州では公国候国などと呼び、日本では藩とよんだ）に分け、その地域の長が、地域の土地 所有権、住民に対する課税権、立法行政司法権を持ち、且つ紙幣発行権、徴兵権も持つ制度で、国家構造に対する用語です。現代のアメリカ合衆国はこの意味で 封建制の国と呼べます。 <br />日本では戦後「封建的」は「古い、非民主的」の意味で使われましたが、是は間違いです。私はこの意味での封建制はロシアにはなく、イワン雷帝以 来（是が大袈裟ならピョートル大帝以来は間違いなく）中央集権国家であったと解釈しています。クリミヤ戦争敗北後の諸改革も中央政府主導で行われていま す。 <br /><br />産業革命は基本は生産方式・手段の改良であって、当初は個人経営の工場でしたが、多くの資本を集める為に有限会社・株式会社が考え出され、次第に資本主義と呼ばれるに到ったのです。産業革命は資本主義社会成立の大きな要因にはなりましたが、産業革命＝資本主義ではない。 <br />生産体制、流通体制（即ち産業構造）は、個人の家内工業、組合（ギルド）による分業から会社組織と変化しています。 <br />藤瀬浩司著、『資本主義世界の成立』の「それまで富の生産と分配を支配してきた中世適所規則であった封建制から、産業革命が起きた際に競争が導入された」とう説明は <br />上記の私見とは一致しないものです。「中世適所規則であった封建制」と言う表現に「封建制の無理解、古い制度とみる観念」が伺われます。 <br /><br />私の指摘点は「封建制から資本主義へ」は異なる概念を発展系として捉えている点にあります。 <br />日本で言えば、明治維新以降「家内工業、藩営工場から資本主義体制へ」「封建制から <br />中央集権国家へ」と分けて書く必要があると言うことです。 <br /><br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br /><br />田中さんへ<br />　 桃井富範 06年06月13日23時38分<br /><br />　クリミア戦争の内容に関しては <br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 <br />などに詳しいようです。 <br /><br />　＞封建制の反対語は中央集権で、資本主義の反対語は社会主義又は共産主義で、同意語は私有財産制・自由競争で、その前段階はギルト制生産体制です。 <br />　という点につきましては、 <br />藤瀬浩司著、『資本主義世界の成立』、ミネルヴァ書房、２００４年、によりますと、それまで富の生産と分配を支配してきた中世適所規則であった封建制から、産業革命が起きた際に競争が導入されたとしています。 <br />　 <br />　この競争によって巨大な財産を形成した「大資本家的経営者」と悲惨な状態に陥った「大部分の労働者」に２分されたとのことで、この「大資本家的 経営者」らの形成したイデオロギーを資本主義、「大部分の労働者」から形成されたイデオロギーを社会主義と言う事が出来るかもしれません。 <br />　つまりは、社会主義と資本主義は同時に生まれた、あるいは分化したイデオロギーであると言えます。 <br /><br />　人間は二つに分けることが出来る。金を貸す奴と金を借りる奴だ。と言う私の文句がありますが、まあ、株式とか国債とか一見複雑極まりないシステ ムでも、要するに本質的には金を貸しているか借りているかという違いであります。貸す側はその利子によって生活を営み、借りる側はその資金によって営業を 行います。 <br /><br />　もっとも、現在の複雑化した世の中では人間は借りる側であると同時に貸す側であったり、あるいは雇われる側であると同時に雇う側でもあるというような複合性が見られますので、現在はこれらを２元論的に論ずることは少々ナンセンスではありますが…。 <br /><br />　権力が安定を欲するとき、競争という概念は押さえつけられます。例えば、戦争技術が発展するのは主に戦争時であって、平和な時代ではありません。しかしながら、その平和に胡坐をかいた政権が外圧によってもろくも崩れ去る事実は歴史が証明しています。 <br /><br />　今回もクリミア戦争という外圧によってそれまでの政策のまずさが露呈され、それではその当時に覇権を握っていた国家の真似をしようとするのは必 然的なミメーシス行為であります。そこで、ロシアの封建制の安定を支えていた農奴制を終焉し、国家内での競争力を高めようとするのですが、それらの政策を 行ったのも所詮はその当時の権力者に過ぎませんから、ひずみを食い止められないのですが、歴史は明らかに進展していくのですね。その際の資本階級（つまり は利子で食べていた人々）が資本主義イデオロギーを形成し、サラリーで食べていた人々が社会主義、共産主義を形成するわけで、このような階級闘争史観が一 時のイデオロギーとなっていましたが、現在では情報が非常に高い精度で様々な人々に行き渡っている時代です。 <br /><br />　例えば『金持ち父さん、貧乏父さん』などの著作の中で４つのクワドラントが存在しますが、今では一人でその４つのクワドラント全てをこなしてい る人間もいる、あるいはこれからはそういうのが普通になっていくのでしょう。このような局面で常に歴史は均衡点を探し続けているのです。 <br /><br />　という時代ですから、より多面的で柔軟な思考と行動、そして感情が必要になる時代が現在実際に訪れていると感じます。 <br /><br />人間のまことの富は、彼がこの世で行う善事である。（マホメット）<br />　 桃井富範 06年06月14日18時33分<br /><br />　ロシアは社会主義に始めて成功した国だと言われていますが、それは裏返して言うと、資本主義化に大失敗した国であるということです。 <br />　 <br />　クリミア戦争の後にアレクサンドル２世が農奴解放を行いましたが、その農奴解放も名ばかりの十分な開放ではなく、依然として旧農奴に賦役などの 重い課税がかかっていたために、彼らは資本主義的な利潤活動に乗り出すことが出来ずに、産業革命などの立役者であった工業などの分野において、出稼ぎなど の手段を行うことしか出来ませんでした。 <br /><br />　これは、資本主義周辺諸国の特徴であり、この中途半端な改革では結局のところ産業革命を成功させた資本主義諸国と差をつけられてしまい、これら のひずみがついにはアレクサンドル２世の暗殺という結果まで及んでしまったというのが現在歴史が示しているものです。これらの原因としては情報の明らかな 格差というものが背景にあったと考えられます。 <br /><br />　また、経済体制と国家体制には密接な結びつきがあり、産業革命によって労働過程が変革されたことによってこれまでの封建的な国家体制との間に矛 盾が生じ、中央集権体制が生まれ、それに際して同時に「人間の人格的自由」が声高に叫ばれるようになって、一部の地主が多くの農奴を膏血、採取するという それまでの支配方法の矛盾点が明らかに露呈し、尚且つ外圧もあって、ついには農奴解放を行い、資本主義化を進めざるを得ないというように国家の支配体制が 揺るがされていったのです。 <br /><br />　ロシア資本主義が瓦解した原因としては、やはり完全な意味でロシアが農奴制から脱することが出来なかったからであり、そのために経済的な競争力 が落ち、外圧も加わって、結局はヨーロッパの先進的な知識を手に入れたインテリゲンチャの手によって暴力的に滅ぼされてしまったのでしょう。 <br />　 <br />　しかし、だからといって資本主義が悪で社会主義が善とかそういう問題ではありません。現在の国家においてはこれらの思想が共存、対話、競争を続けているのが普通です。 <br /><br />　ただ、私の実感としては気候の寒い地域というものは先天的に社会主義的土壌を生みやすいと考えています。それは簡単なことで、特に冬など助け合 わなければちょっとしたことですぐ人間が死んでしまうほどの自然の厳しさがあるからです。北海道などはそういった地域に属していると思います。それに比べ ると、例えば温暖地域ではいくら冬で外で一晩過ごしても死ぬことはありません。そういった意味でよく北海道の人間からは本州の人間は冷たい等という言葉を 聞きますが、私思うに本州では助け合わなくても生きていけるまで言わなくとも、せめて死にはしない気候が備わっていると思います。北海道の北部などでは普 通に死んでしまいます。ここらへんの気候の状況などを更に加味する必要があるでしょう。 <br /><br />酔いて苦言を吐く<br />　 桃井富範 06年06月15日00時28分<br /><br />　究極のところで私は極度の平等主義を重んじている人間です。人間は根本的な意味で皆平等ではありますが、生まれた境遇によって与えられる教育の質や情報の濃度によってある程度の能力のバラつきが生じ、結局的にある程度の差別的状況に追い込まれていきます。 <br /><br />　しかしながらノブレスオブリージュという言葉があるとおり、人間はその社会的階級によって倫理の質を高めなければならないということでそこらへんの平等的均衡は常に存在しますが <br /><br />　正直なところ、私は自らの身分に覆いかぶさってデカイ態度を取ってる奴を見ていると殴りたくなるという生来の性質があります。 <br /><br />　要するに、そういう態度をとっている人間にはそれに値する情報の一方的な偏りが存在し、強者のつもりである人間はその所持を偉ぶっているに過ぎません。 <br /><br />　正直、私が直面した人生の状況の中でこれは許せんというのもありました。 <br /><br />　現在私自身危機的状況に直面していますが、自らの正義を確信したならば果敢に戦って勝利する必要も時には存在すると感じます。 <br /><br />　まあ、しかしながら人間社会というものは基本的にはエゴイズム共同体です。ここら辺はあらかじめ認識する必要が存在します。 <br /><br />　生命とは終わりなき自己の自由と正義と愛を求める闘いでしょう。　 <br /><br />　駄文を失礼いたしました。 <br /><br />帝政ロシアの1860年代改革　　国家体制　ほか<br />　 田中駢拇 06年06月15日13時32分<br /><br />ロシア史は詳しくないのですが、クリミア戦争後ロシアは資本主義時代に入ったと解釈しています。 <br />１：1857　ロシア鉄道中央会社　　株式は国内資本で賄われた <br />　　1864　民間の株式銀行・信用組合の創設認可　　第一号　ペテルスブルク私立商業　　　　　銀行（64/7/28） <br />　　1863　火酒専売制廃止　間接税に移行　　アル中増加原因 <br />　　1862　塩専売廃止、人頭税廃止 <br />　　1863　営業の自由保証 <br />２：農奴解放 <br />　　1861　解放令（但し第三段階で一部では暫定的に行われていた） <br />　　1870　農奴の土地所有者　　66.6％ <br />　　1881　　　　　　　　　　　85.7％ <br />　　政府が農奴に金を貸し付け農地を買い取らせ37年賦で返済させる方式 <br />＊和田春樹『ロシア大改革時代』岩波講座「世界歴史」20巻　から抽出 <br />上記は明治時代にも匹敵する改革で、日本では日清戦争時には資本主義確立とされている。 <br /><br />この改革が相当程度の成功を収めたことは日露戦争時、また第一次世界大戦のロシア軍事力で証明されている。 <br /><br />アメリカ合衆国国を「封建制」としたのは、「封建制」の持つ語感からも不適ですが、国家体制国家構造の問題であることを明らかにするために敢えてしました。 <br />　　　　　　ＵＳＡ　　　江戸時代　　　現在日本自治体　　　1860代ロシア <br />国家代表　連邦政府　　　幕府　　　　　政府　　　　　　　　　ツア <br />通貨発行　同上　　　　　幕府　　　　　政府　　　　　　　　ツア <br />　　　　　　　　　　　　藩札　 <br />警察権　　連邦、州　　　藩　　　　　　政府　　　　　　　　ツア <br />立法　　連邦（対州国民）幕府（対藩）　政府、　　　　　　　ツア <br />　　　　州（州民）　　　　　　　　　　自治体（条例） <br />軍　　　連邦、州　　　藩に対する命令権　政府　　　　　　　ツア <br />　　　　　　　　　　　藩が保持 <br />地域統治　　州　　　　藩　　　　　　政府自治体　　　　　　ツア（任命の知事） <br />徴税　連邦、州　　　　藩　　　　　　政府自治体　　　　　　ツア、領主 <br /><br />日本では戦後マルクス史観の影響からか「封建制」＝「古い、農民搾取、農民の人権無視」という固定観念があります（私は学校ではそう習った）が、 これは見直す必要があります。江戸期の農民は貧乏でも奴隷ではなく、制限付きながら転職の自由も移動の自由もありました。ロシアの農奴は特例です。此処で 中断 <br /><br />今後の課題として<br />　 桃井富範 06年06月15日21時04分<br /><br />田中さんの仰る通り、確かに私の修士論文の中で、私自身第３章の資本主義に関する論説と第４章の土壌主義に関する論説については不完全燃焼な部分を抱えています。 <br />　 <br />　土壌主義に関して言うと、この土壌主義というイデオロギー時代がかなり曖昧なもので、政治的コンテクストで述べると例えばスペンサーの国家有機 体論などとからめるとある程度の論説は出来上がるとは思いますが、どちらかというと、文芸批評論やエリアーデなどの宗教思想とからめたほうが相性がいいよ うでもありますが、もう少し発展的に論を組み立てる事が可能でしょう。 <br /><br />　さて、実は私がたった一章で述べたこの論説は突き詰めると恐らくはほんいさっつ執筆できるような内容の濃いもので、私の修士論文の言説だけでは 少々言葉足らずだったと実感しています。ここらへんの論説については、論じていくとある程度きりがないという点がありますが、『カラマーゾフの兄弟』とい うドストエフスキーの作品への影響を分析すると主題を明確にした上でより細密な分析を行う必要性を感じています。 <br /><br />　修士論文において参考文献として使用した書物は、 <br /><br />Б.Ф. Егоров. Аполлон Григорьев. Москва Молодая гвардия. 2000. <br /><br />Robert L. Belknap The structure of the Brothers Karamazov (Evanston:Northwestern University Press 1989). <br /><br />Geoffrey C. Kabat. Ideology and imagination : the image of society in Dostoevsky (New York : Columbia University Press. 1978). <br /><br />ピーター・M.ブラウ著、間場寿一[ほか]訳、『交換と権力 : 社会過程の弁証法社会学』新曜社、１９７４年 <br /><br />藤瀬浩司著、『資本主義世界の成立』、ミネルヴァ書房、２００４年 <br /><br />であり、主に概説部分においては藤瀬浩司著、『資本主義世界の成立』、ミネルヴァ書房、２００４年を参考にしましたが、如何せん、参考文献不足が否めないという気もします。あの頃の段階では恐らくあれが自らの気力を振り絞った結果ではありました。 <br />　 <br />　恐らく更に分析を進めるためには私なりにある程度教科書的にその頃の国家の政治と経済の状況をまとめる必要性を現在感じています。 <br /><br />　大空さんが推薦してくださったマルク・ブロックの『封建社会』も勿論目を通しておこうとは思いますが、田中さん、当時のロシア経済と政治の概説に関する文献何かご存知でしたら御推挙いただけると幸いです。 <br /><br />　有難うございました。 <br /><br />ロシアの資本主義<br />　 ka 06年06月16日01時14分<br /><br />歴史概念について議論を始めると、えてして収拾がつかなくなりがちですので、さしあたり教科書的な知識を押さえておけば（非・専門家としては）十分ではないでしょうか。特に「資本主義」の定義になると、おそらく専門家でも泣くほど大変なものになるでしょうから。 <br /><br />＞桃井さん <br /><br />「封建制」はさておき。「ロシアでは資本主義が失敗した／社会主義が成功した」という把握には、やや違和感を抱きました。 <br />下で書いておられたように、資本主義と社会主義とは、いわば車の両輪であって、その発展は分かちがたく連動しているものです。19世紀～20世紀 のロシアにおいては、資本主義とともに社会主義もまた未発達であったはずで、その両方の発展が革命によって一度断ち切られたのだと考えるべきではないでしょうか。 <br /><br /><br />ともあれ、ドストエフスキー作品と資本主義の関係を論じておられた箇所は、私の目には――まったくの門外漢として無責任なことを言わせていただくなら――貴論文全体のうちで一番「伸びしろ」があるように見えました。ぜひ、この方向を深めていっていただければ、と思います。 <br /><br />この問題を考えるためには、まず、当時のロシア社会で「資本主義」をめぐってどのような言説が展開されていたかを把握する必要があるはずです。お そらく、このトピックに関する研究文献は、特にマルクス主義者とナロードニキの論争を扱ったものなどを中心に、日本国内で1980年代までに書かれたもの だけをとってみても相当な数にのぼるでしょう。 <br />――その反面、ソ連崩壊後における知的枠組みの変化の中では、（大空無用ノ介さんが挙げておられるような）アナール学派や世界システム論などか ら19世紀ロシアの経済・社会状況を見直して、さらにその成果を文学作品の解釈にフィードバックしてみせるような研究は――これまた門外漢の勝手な想像で すが――かなり手薄なのではないかと。それだけに、「ドストエフスキー作品と資本主義」というのは、それなりに研究しがいのありそうな話題だと思うわけです。<br /><br />桃井さん<br />　 田中駢拇 06年07月31日17時58分<br /><br />Home　pageの研究計画を面白く拝読しました。研究主題は <br />１　精神病関係 <br />２　資本主義の発達 <br />３　陪審制度 <br />に分かれると見ました。 <br />精神病関係ではウイキペヂアが結構役立ちます。陪審制度も同じです。 <br />資本主義では、大古典の「国富論」は必読で、ドラッガーも役立ちます。陪審制度は刑日本語の法の教科書、刑事訴訟法の教科書から始めるべきでしょう。グーグルではマグナカルタの原文が読めます。 <br />ご健闘を祈ります。 <br /><br />田中さん<br />　 桃井 富範 　 06年08月01日00時17分<br /><br />　お久しぶりです。有難うございます。１　精神病関係に関すると、社会のコモンセンスに適合しない人間を矯正ないし隔離する装置という役割を果たしてきた点が否めないと感じていますが、そこについての分析を、権力理論、進化ゲーム理論などから弾き出すと同時にそういう姿勢そのものの是非について問うという問題です。 <br />　２　資本主義の発達についての問題は修士論文でも触れましたが、今後の課題としたいと思います。 <br />　３　陪審制度の問題については私には荷の思い問題です。田中さんの御助言期待しております。 <br />　その他にも進化ゲーム理論分析の文学研究への応用による発展に寄与できればと思っています。 <br />　今後の研究としては、愛のゲーム理論としての文学分析システムの確立が目標です。 <br /><br />桃井さんへ<br />　 田中駢拇 06年08月01日02時53分<br /><br />下記は執筆中の草稿です。参考になればご利用下さい。 <br />木下先生からは、精神病に関する部分は、ドストエフスキーの作中人物に絡めて説明してはどうか、との勧告を戴いております。 <br />ご批判大いに歓迎します。 <br /><br />三章　十九世紀に於ける自殺を巡る諸問題 <br />一　自殺の増加と自殺学 <br />十九世紀には自殺者が増加し社会問題となってきた。これについてはドストエフスキーは『作家の日記』*12一八七六年十二月号五 で「 実に奇妙な、謎のような自殺事件を、きわめてたくさん（この数の多さもやはり一種の謎である）目にしている」と書いている。自殺の増加により自殺を社会学的に研究する自殺学（英　suicidenology）が確立してくる。この代表はデュルケームの『自殺 <br />論』で、一八九七年に発刊された。デュルケームの作成した統計に依れば*13、十九世紀は後半に近づくほど自殺が増加している。デュルケームは当時のヨーロッパ各国の自殺記録を統計調査処理し、それぞれの社会の特徴によって自殺がどのように異なるかを明らかにした。これに依れば、冬季よりも夏季に、カトリックの国よりもプロテスタントの国で、女性よりも男性において、既婚者よりも未婚者・死別者において、農村よりも都市において自殺率は高くなると指摘した。プロテスタントの自殺がカソリック教徒よりも多い理由は、カソリックの方がプロテスタントよりも宗教的規制が多く、プロテスタントのような聖書研究の自由が少ないことが原因であると指摘している。又戦争・革命が自殺を減らし、飲酒と自殺の相関関係がないこと、精神病では関係がある場合と無い場合の二種の統計を作っている。 <br />デュルケームは、自殺をその原因によって分類した*14。 <br />・非社会的要因による自殺 <br />（一）精神病　自殺が狂気の状態で生じると認め乍ら、自殺が精神異常の一指標である事を否定する。偏執狂的自殺、憂鬱症的自殺、強迫的自殺、衝動的自殺を挙げる。 <br />（二）模倣 軍隊や監獄での連続的自殺 が挙げられているが、自殺の根源的原因ではないとする。 <br />・社会的要因による自殺 <br />（一）自己本位的自殺 ーー個人的自我が過度に主張され、社会集団の力が弛緩した時代に於いてみられる自殺で、孤独感や焦燥感による自殺が挙げられている。 <br />（二）集団本位的自殺 ーー 集団の圧力・慣習によって行われる自殺で、 老齢者の自殺、殉死、切腹、軍人の自殺などがある。 <br />（三）アノミー（仏anomie）的自殺 ーーアノミーはデュルケームが創った概念で、 社会の変化・動揺から生ずる個人の行動・欲求の無規則状態を意味する。自己本位的自殺との相違点は、集団の力の欠如が個人の情念において作用する点にある。そこでは ノイローゼ、犯罪、自殺などが生ずる。破産、離婚、失恋などを理由とする自殺が挙げられている。 『若きウェルテルの悩み』*15（一七七四年に出版）の主人公の自殺は茲に分類されている。 <br /><br />二　近代刑法の確立 <br />ナポレオン法典の一つとして一八一〇年に制定されたフランス刑法により、近代刑法の基本概念ーー罪刑法定主義*16、責任能力概念が確立された。責任能力概念は刑法で規定された犯罪を犯した者の責を問う為には犯人が犯罪遂行時に正常な判断力を持っていることが前提条件とする。責任能力は刑罰能力であって犯罪能力ではない。責任無能力者（精神喪失者ー　精神病者、昏睡状態者、泥酔者など若しくは精神耗弱者ー軽度の精神薄弱者など）*17でも犯罪は為し得る。この責任能力概念により、自殺者は精神病者で自殺時には精神耗弱を起こしているとして、自殺禁止法の適用から救うという動きが欧州各国に出てきた。 <br />但し、フランスでは刑法が自殺を犯罪ではないとした。これはフランス革命で確立にされた政教分離の理念に依る。欧州各国も徐々にこれに倣ったが、プロイセンでは一八七一年まで存続しイギリスの自殺禁止令の廃止は一九六一年である*18。又一八八一年公布のニューヨーク州刑法は自殺を犯罪としている*19。 <br />現代では法律で自殺を禁止するには到っていないが、我が国同様に「自殺関与罪及び同意殺人罪」を規定する国は多い。日本国刑法第二〇二条は「人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁固に処する」と規定し、未遂の場合は、第二〇三条で罰せられる。自殺関与罪とは、その人の自殺実行を容易ならしめ、自殺の決意を強め、自殺に誘導する事などを謂う。同意殺人とは、当人の嘱託若しくは承諾を受け、その人を殺害することを謂う*20。 <br />欧米では自殺禁止法はないものの依然として自殺はある種の禁忌として考えられてい、日本ほど自殺に対し寛容ではない*21。 <br /><br /><br />三 自殺権　　　 <br />モンテスキュー・ヴォルテール・ルソーなどの啓蒙派によって提唱され、イギリス（一二一五年のマグナカルタ以降）、一七八八年のアメリカの合衆国憲法、一七八九年のフランス革命などで確立された人権と自由の概念は、民主制と共に近代社会に於いて最も重要な価値概念である。而して、言論の自由、結社の自由、信教の自由などの他に「生存の自由」も権利として主張され、十九世紀には「生存権」には、生存を終わらせる自殺も個人の権利として含まれると主張されるようになった。 <br />モンテーニュ（Michel Eyquem de Montaigne 一五三三ー一五九二年）は「生は他人の意志に、死は自分の意志に頼る行為である」と言い、デイヴィッド・ヒューム（David Hume、一七一一ー一七六六年）は、「人の生死が神の特別の領分としてきめられているのであれば、自殺と同じく生命保持の行為も罪深いものではあるまいか。（中略）もし私に可能であれば、ナイル川やダニューブ川の流れを変えることをしても罪にはなるまい。それならば数オンスの血液を自然の流れからそらしても罪になるはずがない」と『道徳・政治・文学論集』と書いたが、これは直ちに発禁になり刊行されたのは、その死後の一七七七年であった*22。（執筆は一七四六年頃と推定）。ショーペンハウエルは、一八五一年発表の『自殺論』で、「一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利をもっているものはこの世にほかにないということは明白ではないか」と語っているが、自殺には否定的である。ニーチェ（Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四ー一九〇〇年）は、自殺について「自由な権利」とまで言い切って、自殺が個人の尊厳を担保する行為のように規定した*23。 <br />四 精神医学の確立*24 <br />十九世紀は精神医学の台頭期でもあった。近代精神医学の歴史は、それまで狂気として認識されていた精神疾患を、疾患として分類する試みから始まった。 <br />中世ヨーロッパでは精神病患者は悪魔憑きと呼ばれ迫害され、大衆の見世物にされることもあった。 悪魔憑きの者は、パニックのような極度の興奮、凶暴な舞い、睡眠時遊行(所謂る夢遊病)、癲癇の発作、妄想、幻覚、、本来その人が決してしないような行動や自殺（魂の破滅）などの原因とされた。 <br />『カラマーゾフの兄弟』*25の第一部第一篇三「再婚と腹違いの子供たち」と第二篇三「信心深い農婦たち」（上四三頁）に「狐つきの女」*26（英訳　wailer　五〇頁）が出てくる。 <br /><br /><br /><br />四ー一　十九世紀に於ける精神医学の発展 <br />（一）フランスの精神科医・ピネル（Philippe Pinel 一七四五ー一八二六年）は、ルソー（Jean-Jacques Rousseau 一七一二ー一七七八年）や百科全書派の影響を受け、また当時の英国の心理学的精神科の臨床実績も検討し、一七九二年ピセトール精神病院の医院に就任した翌一七九三年に三十年から四十年に亘って閉鎖病棟で鎖につながれている精神神経症患者を開放した。 <br />『カラマーゾフの兄弟』十編七のコーリャがイリューシャを見舞う場面に、医者が「パリの精神病のレペリレーチェ先生の病院へ」という科白があり、英訳では「psychiatre Lepelletier]である。「Philippe Pinel」と「Lepelletier」はスペルが似ているので、ドストエフスキー一流の「もじり」の可能性があり、然りとすればドストエフスキーは「Philippe Pinel」の論文を読んでいたか、話に聞いていことになる*27。 <br />（二）一八五二年、フランスの精神科医モレル(B&eacute;n&eacute;dict Morel (一八〇九ー一八七三年)によって統合失調症は初めて公式に記述され、「早発性痴呆　仏D&eacute;mence pr&eacute;coce」と呼ばれた。 <br />（三）一八九九年、ドイツのクレペリン (Emil Kraepelin　一八二五ー一九二六年)が『早発性痴呆　独Dementia Praecox』を著し、精神病を早発性痴呆（現在の統合失調症）と躁鬱病に分類し、精神病を、統合失調症・双極性障害・癲癇等の内因性の精神疾患と定義し、これを三大精神病と呼んだ。クレペリンは近代精神医学の鼻祖と言い得る。 <br />（四）一九一一年、スイスの精神医学者オイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler　一八五七ー一九三九年)は「早発性痴呆　独Dementia Praecox」は、必ずしも若年時に発症するとは限らず、又、必ずしも痴呆に到るとは限らず、この病気の本性は精神の分裂にあるとして、「精神分裂病　独Schizophrenie、英Schizophrenia」と改名し疾患概念を変えた。*28 <br />四ー二　精神疾患の分類 <br />（一）癲癇（英 Epilepsy）とは、脳細胞のネットワークに起きる異常な発火（癲癇放電）のため癲癇発作を来す疾患あるいは症状である。癲癇の発症は先天的なものと腫瘍による脳の圧迫などや事故による後天的なものがある。また腫瘍の切除などによる脳外科手術では、低い確率ながらも癲癇を発症する可能性がある。痙攣は癲癇に見られる症状の一つであり、強直性、間代性などの不随意運動であるが、痙攣を伴わない発作もある。 また、意識障害として突然意識を失う・記憶が飛ぶ・急に活動が止まって昏倒する場合もあるが、発作の大半は一過性であり、数分～十数分程度で回復するのが一般的である。ドストエフスキーは癲癇病者*29であり、度々の発作に苦しんだ。『白痴』*30のムイシュキン公爵は癲癇病者であり、同作の上二八五頁にはその発症について見事な描写を書いている。『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフは癲癇の発作が一過性であることをアリバイ工作に使った。加賀乙彦は「ただ一人ドストエフスキーがてんかんという病理現象から深い透徹した人間的意味を発見し、それを文学に形象化することに成功した」*31と記す。 <br />（二）統合失調症（独Schizophrenie、英Schizophrenia）*32とは、妄想や幻覚などの多彩な症状を示す精神疾患の一つである。明治時代にドイツ語「Schizophrenie」の訳語として「精神分裂病」と訳されたが、病名が偏見を示すとの苦情が多く、二〇〇二年に日本精神神経学会総会によって「統合失調症」へ病名変更がなされた。思考過程の障害、 思考内容の障害（妄想）、 知覚の障害（幻覚hallucination）を伴う。発症の原因の詳細は今尚不明である。 <br />（三）鬱病（英　depression）とは、気分障害の一種であり、抑鬱気分や不安、焦燥、精神活動の低下などの精神的症状、食欲低下や不眠といった身体的症状などを特徴とする精神疾患である。しばしば自殺企図を伴う。 <br />（四） 双極性障害（ 英:bipolar disorder）とは、精神疾患の気分障害の一つで、躁鬱病とも言う。症状としては、躁状態と鬱状態が交互に表れる。鬱状態から急に躁状態になること(躁転)はまれでなく、一晩のうちに躁転することもある。 <br />エリザベス朝時代には、現在の統合失調症、神経症、精神障害と言われる全てが躁鬱病に分類されていた。そして「躁鬱病は上質な人間や天才につきものであるという観念が一般に受け入れられていた。」*33 <br />（五）ヒステリー (英　hysteria 独Hystere）*34とは、ギリシャ語の子宮（hysteros）を語源とする神経症であるが、嘗ては女性特有の病気とされたが、男女の区別無く発症する神経症である。 <br /><br /><br />『カラマーゾフの兄弟』の第一部第一篇三「再婚と腹違いの子供たち」の「狐つきの女」（英訳　wailer　一一頁）は「一種の神経性婦人科疾患ともいうべき」「恐ろしいヒステリーの発作を伴うこの病気（with its terrible attacks of hysteria）」（一二頁）であり、第一部第二篇三「信心深い農婦たち」（四三頁）にも「狐つきの女」（英訳　wailer　五〇頁）も、ヒステリーと解するのが妥当であろう。 <br />この場面では、ゾシマ長老が肩帯を女に掛けて祈ると痙攣が止まるが、この現象は「狐つきの女」が初回ゾシマ長老に手を触れられるか何かで痙攣が治まったとすると、それが狐つきの頭に刷り込まれ、同じ反応をすると言うことは、現在の精神病学に照らしてもあり得る現象とされる。作品ではこれを奇跡としている。同作第一部五篇三「互いに認識を深める兄と弟」のイワンとアローシャが語る場面で「ヒステリー（英訳　hysterics）ってやつは愛すればこそ神様が女性に授けられたものなんだだかね。」（上二一六頁）とイワンが言う。 <br />フロイドはドストエフスキーの発作は癲癇ではなくヒステリーによって起きたと解釈していた*35。 <br />（六）アルコール依存症　（英　Alcoholism） <br />十九世紀は蒸留酒が安価に製造されるようになった時代でもある。ウオッカは十二世紀頃からロシアの地酒として飲まれたと伝えられるが、一七九四年に白樺の活性炭でウォッカを濾過する製法が開発された。ジンは十九世紀中端に連続式蒸留器が発明され、アルコール度数の高いスピリッツを作り、そこにジュニパーベリーなどの副材料を加えて単式蒸留するようになった。安価な蒸留酒の入手により産業社会の発達と相俟って、各国でアルコール依存症患者が増えてくる。アルコール依存症も一九世紀には中世の悪徳視から疾病へと変化し居る。ロシアではアレクサンドル二世の改革で一八六三年に火酒専売制が廃止され、間接税に移行しウオッカの価格低下によりアルコール依存症増加の原因となった。 <br />イギリスの内科医サットンは一八一三年に「Delirium treatment　振戦譫妄」と命名して、振戦（震え）・意識障害・幻視を主症状とした。ロシアのコルサコフは一八八九年に、記憶喪失・作り話・見当識障害を主症状とするアルコールによる慢性精神病（コルサコフ精神病）を記述した*36。 <br />アルコール依存症の症状は*37、多彩多様であるが、精神不安定、虚言，無責任 <br />感情爆発性、振戦譫妄、急性意識混濁，幻視（小動物の群など），幻触（蟻走感など）、アルコールパラノイア（妄想型）、被害妄想、アルコール癲癇（真性癲癇と同様な症状経過）などがある。アルコール依存症の特徴は、上記の病状の他に習慣慢性的飲酒と飲酒量抑制喪失がある*38。 <br />『カラマーゾフの兄弟』のイワンは「酒客譫妄（英訳Delirium treatment）の発作一歩まえ」にいたと書かれている（第十一篇九　上一七六頁）。「酒客譫妄 」*39これはアルコール依存症の症状である。又「ドストエフスキーの父は渇酒癖と奇妙な発作があった」とYarmolinskyは書いている*40。『作家の日記』一八七三年一一「空想と幻想」では「国を挙げての酒びたりの生活の害毒から国民を救うことが出来るかどうかという問題」を取り上げている。 <br />四ー三 ドストエフスキーの精神疾患理解 <br />ドストエフスキーは、自身が癲癇病者であったので、精神病には関心を示しており、統合失調症、癲癇、アルコール中毒に関しては知識があった。ドストエフスキーは一八八〇年八月十日付けの編集者宛の手紙で「複数の医者から意見を聞いていたこと、幻覚も譫妄症の前にあること、幻覚を悪夢と混同すること、この場合現実と幻覚の区分を失い病的な特徴のみならず性格と一致する精神的な特徴を示す」*41と書き、一八六三年七月十七日付けのツルゲーネフ宛の手紙では「実のところ、小生はできるだけ近いうちにベルリンとパリに向けて出発します。それはただただてんかんの専門医の診察を受けるためなのです。パリTrousseau、ベルリンではRomberg（訳者注：当時の有名な神経学者、臨床家）。ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」と書いて居る*42。 <br />前述の『カラマーゾフの兄弟』の第一部第二篇三「信心深い農婦たち」には <br />「私」（ドストエフスキー）が「町医者や専門医」の意見を徴したとあり、右記の手紙と一致する。 <br />従って、その長編の作中人物には精神病者の症状が良く描写されている。前述した十九世紀の精神病の発展に照らして考えると、ドストエフスキーは鬱病については知識がなかったと推定出来るし、癲癇と統合失調症を区分していたかも不明である。だが是を以てドストエフスキーの精神病理解が不十分と断ずることは出来ない。現在に於いても精神疾患の発症原因やその分類*43については異論が多く、単一性心病症説を唱える学者もいる。<br /><br />田中さんへ<br />　 桃井富範 06年08月01日06時22分<br /><br />　有難うございます。こういう概括や歴史的事実は必ず把握せねばならない部分でしょう。 <br />　自殺を巡る諸問題につきましては、ドストエフスキーの登場人物の主人公には自殺をする人間が結構一杯出てきますので、その人物達の比較や他作品の個々の分析を続けていきながら、当時の社会世相との関連などにおいて論じていけば、論点が自然と浮かびあがってくるのでしょう。 <br />　文学作品においては自殺までの人物の内面描写が細密に描かれているので、うってつけでしょう。有益な文献の１つとして自殺の文学史 を挙げておきます。是非御一読ください。 <br />　経験では、自殺に関しては私はカラマーゾフの兄弟におけるドミートリーの自殺を実行しようとしながらも、踏みとどまってグルーシェニカに馳せ参じていくドミートリーの姿に感動したものでした。 <br />　四以降の概括もとても丁寧にまとめてあります。 <br />　さて、ここからどれだけ問題の中枢に迫れるかという点です。 <br />　古代においては狂気は聖性の１つとして、むしろ崇められる立場にさえ存在した。それが、病のレッテルを貼られ、治療、隔離の対象となってしまったその背景を特定せねばなりません。 <br />　狂気の歴史 をもう一度読み直してみる必要がありそうです。私も是非読み直して問題の本質に迫ります。 <br />　アルコール依存症　（英　Alcoholism）に関しては回答らしきものがあります。というのも、アルコールというのは、農村経済における栄養源だった。農村における長い単調な作業をこなすための栄養源として用いられていて、農業の単純作業においては副作用の酩酊はそれほど重視されず認知されてきたようです。 <br />　それが、産業革命によって労働の質が一気に変化した際にアルコールによる副作用の酩酊、集中力の低下が労働の際に致命的な弱点となった。それがアルコール依存症という病気の背景です。そこの産業体制とアルコール依存症　（英　Alcoholism）という病気の発生が一致しているようです。 <br />　ウォーラーステインの著書にそういう記述が存在しました。今でも日本でも田舎の農村に行くと、朝から酒を飲みながら作業している人たちが普通に存在し、認知されています。 <br />　私もそろそろ気合入れて論文書き始めます。宜しくお願いいたします。 <br /><br />お久し振りでございます<br />　 桃井富範 06年08月15日16時25分<br /><br />現在アルバイトで船での生活最中であります。 <br />修士の２年間は引きこもりのように論文執筆や翻訳の毎日でしたが、現在は悩む暇もない少しドラマチックな毎日が続いています。研究を推進する暇もないのが難点。 <br />安藤教授に研究計画とは別個に論文執筆を始めるようにとのアドバイスを受け、仕事の合間合間に筆を進めています。 <br />今月末にまとまった休みがとれそうなので、その際ＨＰにアップロードします。 <br />話題に上っている売春の問題ですが、これは女性の生殖戦略における子殺しを防ぐためのテクニックであります。複数の異性と肉体関係を結び、誰の子 孫か曖昧にするテクニックによって子殺しを防ぐ戦略であります。江戸時代の大奥制度もこれで説明付けられます。他国で女性を買うという行為は自らの経済力 によって生殖活動を行うブルジョワ戦略になります。行為の是非は問いませんが、太古においては一人の女性を巡って戦争が実際に行われ、万人の万人に対する 闘争を生む要因であります。そのような行為が少なくともその国の男性が日本に敵対感情を抱く要因になっているのは否定できません。 <br /><br />神概念について<br />　 桃井富範 06年08月20日11時49分<br /><br />最近の話題の中で神という言葉が頻出しているようですが、その言葉を用いる以上、神概念について勉強しておく必要が存在するでしょう。私のＨＰの修 士論文でも論じていますので、御一読下さい。神概念を３つに分類すると、それはギリシャ神話や古事記等の擬人神、自然宗教にしばしば見られる多神教、キリ スト教を等の一神教に分類できるでしょう。 <br />擬人神は、支配階級を神に擬し、当時の支配制度の権威づけのために遂行されたようです。 <br />多神教は日本にも存在し、八百万の神や、学問の神、縁結びの神等が存在します。 <br />作品内で用いられる神概念は、キリスト教における神概念でしょう。 <br />キリスト教における神概念は、キリストによる贖罪を前提とします。つまりはキリストが自らの死をもってして、世界への愛を実証したという契機をもってしてキリスト教が存在します。 <br />その際生きている人間達は皆、自らの死をもってして、世界への愛を遂行出来ない罪人になります。その原罪思想を共有しつつ、罪の共同体として、絶えず愛の運動を遂行するというのがキリスト教のシステムなのです。 <br />つまりは愛や贈与の活動を永続的に遂行し続けるためのシステムなのです。 <br />作品内のキリスト教に関するウィットの効いたセリフが存在します。フョードル「神なんてものを考え出した奴はヤマナラシの木にでも縛り首にしてやりたいよ。」イワン「もし神がなかったら、文明も全然なかったでしょうね。」 <br />これは作品内の隠れた名言の一つです。ニーチェのルサンチマンの発想の原点がここに見られます。 <br />ドミートリーの有罪については、生産システムから逸脱したあるいは逆行した行為として、社会的制裁の意味合いが存在するでしょう。それとは別個に 恋愛という契機によって放蕩の衝動から生産へと回帰していく主人公の救済が描かれています。ドミートリーという言葉はギリシャ神話の農耕神デーメーテルが 起源なのです。 <br />ちなみに靖国参拝で話題の神道についてですが、神社は女性の生殖器の構造と類似しているそうです。つまりは神道とは女性崇拝なんですね。日本の古来伝統のフェミニズムだと思います。 <br /><br />人間の存在そのものが罪だとするのがキリスト教の発想です。<br />　 桃井富範 06年08月20日23時30分<br /><br />みなさんの熱い議論拝読してます。ドストエフスキーは神やキリストを超越的所記とした宗教システムを尊敬し、崇拝していたでしょう。ですが、それだ けに収まりきらない進化ゲームを繰り返して来た動物としての生々しい部分をも否定しなかった。ソドムの理想とマドンナの理想の２者を肯定する姿勢はシェリ ングらの神秘主義思想を受け継いでいます。有罪、無罪という概念に関しては、カラマーゾフの兄弟という題名が如実に示しているように、人間は罪の共同体と いうメッセージなのです。ドストエフスキーはベッカリーアの犯罪と刑罰を読んでいますから、そういう制度の正当性を認めていたでしょうが、そういう人間が 何だかんだと様々な概念をふりかざして人間を処罰したりする姿に、やはり拭いきれない不信感を抱いていたのでしょう。カラマーゾフ万歳という最後のセリフ が示しているように、誰が有罪で誰が無罪だというような問題ではなく、人間の存在の根底が罪で、人間はそれを逃れ得ないという自覚の上で生を礼賛するとい うのがドストエフスキーなりの解決だったんでしょう。 <br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<title>参考文献</title>
<description> 新たに使用するであろう参考文献を列挙する。『 シェリングの自由論存在の論理をめぐって 』高尾由子｜北樹出版｜2005年 07月発売単行本｜ISBN/JAN：477930010X 本体価格：3,200円（税込：3,360円） 　Русская философия IX-XIX вв. / А.А. Галактионов, П.Ф. Никандров. - 2-е изд., испр. и доп. - Ленинград : Изд-во Ленинградского университета , 1989.精神医学の歴史 : 隔離の時代から薬物治療の時代まで / エドワード・シ
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<![CDATA[ 新たに使用するであろう参考文献を列挙する。<br /><br />『 シェリングの自由論存在の論理をめぐって 』高尾由子｜北樹出版｜2005年 07月発売単行本｜ISBN/JAN：477930010X 本体価格：3,200円（税込：3,360円） <br /><br />　Русская философия IX-XIX вв. / А.А. Галактионов, П.Ф. Никандров. - 2-е изд., испр. и доп. - Ленинград : Изд-во Ленинградского университета , 1989.<br /><br />精神医学の歴史 : 隔離の時代から薬物治療の時代まで / エドワード・ショーター著 ; 木村定訳. - 東京 : 青土社 , 1999.10.<br /><br />『精神医学の権力―コレージュ・ド・フランス講義　一九七三‐七四年度 [原書名：Le pouvoir psychiatrique : Cours au Coll´ege de France 1973-1974〈Foucault, Michel〉 ] 』　ISBN4480790446 ４６９，４ｐ　２１ｃｍ（Ａ５）筑摩書房 (2006-02-10出版) ・フーコー，ミシェル【著】〈Ｆｏｕｃａｕｌｔ，Ｍｉｃｈｅｌ〉・慎改　康之【訳】[A5 判] NDC分類:135.5 販売価:\6,090(税込) (本体価:\5,800)<br /><br />『フーコーと狂気 [原書名：FOUCAULT ET LA FOLIE〈Gros, Fr´ed´eric〉 ] 』　ISBN4588007343 １５９，２ｐ　１９ｃｍ（Ｂ６）法政大学出版局 (2002-03-25出版) ・グロ，フレヂリック【著】〈Ｇｒｏｓ，Ｆｒ´ｅｄ´ｅｒｉｃ〉・菊地　昌実【訳】[B6 判] NDC分類:493.7 販売価:\2,310(税込) (本体価:\2,200)<br /><br /><a href="http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no10/01kyuno.pdf" target="_blank">http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no10/01kyuno.pdf</a><br /><br />Diagnosing literary genius : a cultural history of psychiatry in Russia, 1880-1930 / Irina Sirotkina. - Baltimore, Md. : Johns Hopkins University Press , c2002. - (Medicine & culture / series editor Sander L. Gilman). <br /><br />『「分裂病」の消滅―精神病理学を超えて 』　ISBN4791760670 ３１８ｐ　１９ｃｍ（Ｂ６）青土社 (2003-10-09出版) ・内海　健【著】[B6 判] NDC分類:493.76 販売価:\2,940(税込) (本体価:\2,800)<br /><br />Dostoevsky and the psychologists / by Maria Kravchenko. - Amsterdam : Hakkert , 1978. - (Bibliotheca Slavonica ; Bd. 17). <br /><br />Holy foolishness : Dostoevsky's novels & the poetics of cultural critique / Harriet Murav. - Stanford : Stanford University Press , 1992.<br /><br />『抗争する人間（ホモ・ポレミクス） 』　ISBN4062583240 ２６２ｐ　１９ｃｍ（Ｂ６）講談社 (2005-03-10出版) ・今村　仁司【著】[B6 判] NDC分類:361.1 販売価:\1,680(税込) (本体価:\1,600)<br /><br />『つきあい方の科学』Ｒ．アクセルロッド 著　松田　裕之 訳　ミネルヴァ書房 版2,730円（税込）　1998年05月 発行　ISBN4-623-02923-9<br /><br />『交渉の戦略―思考プロセスと実践スキル 』　ISBN4478374627 ２０６ｐ　２１ｃｍ（Ａ５）ダイヤモンド社 (2004-03-11出版) ・田村　次朗【著】[A5 判] NDC分類:361.3 販売価:\2,520(税込) (本体価:\2,400)<br /><br />『ロシア史　２　１８世紀&#8722;１９世紀』田中　陽兒 （他）編　山川出版社 版5,610円（税込）　1994年10月 発行　ISBN4-634-46070-X<br /><br /><a href="http://www.nsu.ac.jp/nsu_j/kikan/lab/e-asia/16-2.pdf" target="_blank">http://www.nsu.ac.jp/nsu_j/kikan/lab/e-asia/16-2.pdf</a><br /><br /><a href="http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/roronn2rosia.htm" target="_blank">http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/roronn2rosia.htm</a><br /><br />『 封建社会 』［在庫あり（1&#12316;3日以内に出荷予定）］<br />マルク・ブロック／堀米庸三｜岩波書店｜1995年 11月発売単行本｜ISBN/JAN：4000020927 本体価格：9,800円<br /><br />帝政ロシア司法制度史研究 : 司法改革とその時代 / 高橋一彦著. - 名古屋 : 名古屋大学出版会 2001.2. <br /><br />ロシアの陪審裁判 / 小森田秋夫 [著]. - : 東洋書店 2003.10. - (ユーラシア・ブックレット / ユーラシア・ブックレット編集委員会企画・編集 ; No.53). <br /><br />ドストエフスキー裁判 / N・F・ベリチコフ編 ; 中村健之介編訳. - 札幌 : 北海道大学図書刊行会 1993.11. <br /><br />Л.М.Рейнус<br />Достоевский в Старой Руссе.<br />Три адреса Ф.М.Достоевского.<br /><br />『ヴィゴーツキー心理学完全読本―「最近接発達の領域」と「内言」の概念を読み解く 』　ISBN4788041170 ９８ｐ　２１ｃｍ（Ａ５）新読書社 (2004-12-01出版) ・中村　和夫【著】[A5 判] NDC分類:140.1 販売価:\1,260(税込) (本体価:\1,200)<br /><br />『社会科学の道具箱 合理的選択理論入門 』　ISBN4938551330 ヤン・エルスタ&#8722;；海野道郎 ハ&#8722;ベスト社 1997/05出版 22cm ２２２ｐ[A5 判] NDC分類:301 販売価:\2,520(税込) (本体価:\2,400)<br /><br />『史的システムとしての資本主義　新版』Ｉ．ウォーラーステイン 著　川北　稔 訳　岩波書店 版2,730円（税込）　1997年08月 発行　ISBN4-00-023322-X<br /><br />資本主義世界経済 / I.ウォーラーステイン〔著〕; 藤瀬浩司[ほか]訳. - 名古屋 : 名古屋大学出版会. <br />Holy foolishness : Dostoevsky's novels & the poetics of cultural critique / Harriet Murav. - Stanford : Stanford University Press 1992. <br /><br />進化と人間行動 / 長谷川寿一, 長谷川眞理子著. - 東京 : 東京大学出版会 , 2000.4. <br /><br />精神の生態学　Ｇ．ベイトソン／〔著〕　佐藤良明／訳  新思索社 <br />6,825円　2000年2月  <br /><br />政治と精神分析 / ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ [著] ; 杉村昌昭訳. - 東京 : 法政大学出版局 , 1994.11. - (叢書・ウニベルシタス ; 460). <br /><br />『アンチ・オイディプス [原書名：L'ANTI OEDIPE : Capitalisme et schizophre´nie〈Deleuze, Gilles；Guattari, Fe´lix〉 ] 』　ISBN4309240828 ５２８，１７ｐ　２１ｃｍ（Ａ５河出書房新社 (1986-05-10出版) ・ドゥルーズ，ジル〈Ｄｅｌｅｕｚｅ，Ｇｉｌｌｅｓ〉・ガタリ，フェリックス〈Ｇｕａｔｔａｒｉ，Ｆｅ´ｌｉｘ〉【著】・市倉　宏祐【訳】<br /><br />富、権力、そして神 : 社会環境論序説 / 楠井敏朗著. - 東京 : 日本評論社 , 2002.4. -  ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
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<dc:creator>桃井富範</dc:creator>
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<title>研究内容</title>
<description> 　以前に記述したこれからの研究展望について列挙する。　　①『カラマーゾフの兄弟』における狂気の描写とロシアにおける受容について。作品内における狂気の描写を起点として、国家間での差異、そして狂気そのものに対する分析（フーコー、ドゥルーズ、ガタリ等を引用して）へと深化していけば一章分執筆出来そうな予感。　　このテーマについては、博士論文の支柱とし、なおかつそれでも収まらないとは思うが、アプローチを行い
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<![CDATA[ 　以前に記述したこれからの研究展望について列挙する。<br />　<br />　①『カラマーゾフの兄弟』における狂気の描写とロシアにおける受容について。作品内における狂気の描写を起点として、国家間での差異、そして狂気そのものに対する分析（フーコー、ドゥルーズ、ガタリ等を引用して）へと深化していけば一章分執筆出来そうな予感。<br />　<br />　このテーマについては、博士論文の支柱とし、なおかつそれでも収まらないとは思うが、アプローチを行いたい。キーワードは「内言と外言」であり、この言葉の構造の持つ二項対立の図式が人間に与える作用とシェリングの哲学などとの関連性において述べる。<br />　<br />　他にガルシンの「赤い花」、チェーホフの「６号室」、ドストエフスキーの「２重人格」等の文学作品も文献としたい。<br />　<br />　精神医学の概説を、ロシアを中心に教科書的にまとめる作業も行う。<br />　<br />　論を進め、最終的には現在の精神医学の在り方についてなどにも触れたい。<br />　<br />　②作品内における裁判制度、陪審員制度に関する問題。<br /><br />　これに関してはドスト氏の「文学・思想」に関する「意見・情報」交換ボード<br />http://cgi.coara.or.jp/cgi-bin/cgiwrap/dost/keijiban2/bbs.cgi<br />で記述したので割愛しておきますが、これで一章いける！<br /><br />　だが、テーマとしてどこまで分析できるか不透明ではあるが、触れてみたいテーマである。<br />　<br />　③ドストエフスキーとСтарая Руссаでの生活についてのより詳細な研究。これはまず第一にЛ.М.Рейнусを深く読み込んで、理想的にはもう現地取材とか出来れば最高！これで一章は難しいかもしれないが、すでに論文内にСтарая Руссаについての記述が存在するので、より詳細な説明が出来る。ロシア語の勉強にもなる！<br /><br />　④ドストエフスキーの人生、創作に影響を与えた当時の資本主義制度、封建制、農奴解放などについての事象をより明確に分析、記述する。<br /><br />　修士論文でも触れたテーマだが、更なる詳細な記述を目指したい。具体的には教科書のようにそれらの時代を説明し、政治制度とクリミヤ戦争、資本主義などとの関連において纏め上げる。<br /><br />　⑤シェリングについての追記。ロシアへの導入や、具体的なシェリングとロシアとの関連についてロシア語文献などを用いて入念に調べ上げる。<br /><br />　シェリングについては修士論文でもテーマとしたが、更なる念密な分析を行う。<br /><br />　シェリングのロシアにおける導入について、総合的な概説を記述する。<br /><br />　⑥作品内における金銭関係について<br /><br />　これも修士論文で触れたが、より綿密な分析とグラフの作成を行う。<br /><br />　⑦進化ゲーム理論分析、交渉理論、社会的交換理論（贈与論、神概念論も含めて）、選択理論、<br /><br />　修士論文でも分析を行ったが、新たにこれについても引き続きより細密な分析を進める。<br />  <br />　⑧ダブルバインド・セオリーに関する研究<br /><br />　ダブル・バインドセオリーに関する研究を行う。ダブルバインド、つまり二重規範が、ある点では人間を人間たらしめているともいえるだろうが、他方でストレスを与え、人間を滅ぼしてきたものでもある。これらの二重規範に苦しむ人間像は文学内でも取り扱われており、それらの文献を文学にとどまらない様々な観点から照射し、その本質に迫る。<br />　博士論文執筆のためには『カラマーゾフの兄弟』の作品を中心に読解を行うが、将来的には研究の裾野を広げていくつもり。 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2006-06-19T08:30:27+09:00</dc:date>
<dc:creator>桃井富範</dc:creator>
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<title>研究計画草稿の目的と内容</title>
<description> 　目的は今後の研究計画を文化するという点。　基本的には修士論文のテーマを引き継ぐ形式で研究を進めるつもりであるし、恐らく修士論文の内容は十分にこれから通用する内容だったとの自負がある。　研究計画（つまりは博士論文執筆の為の）としては、必要なのはまず３年間という限られた期限であり、論文の審査が３回存在するので、それを１年ずつの区切りの時期として、どのようなテーマでどのようなペースで、どのような参考文
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<![CDATA[ 　目的は今後の研究計画を文化するという点。<br />　基本的には修士論文のテーマを引き継ぐ形式で研究を進めるつもりであるし、恐らく修士論文の内容は十分にこれから通用する内容だったとの自負がある。<br />　研究計画（つまりは博士論文執筆の為の）としては、必要なのはまず３年間という限られた期限であり、論文の審査が３回存在するので、それを１年ずつの区切りの時期として、どのようなテーマでどのようなペースで、どのような参考文献を使用して論述を続けるかをはっきりと示す必要がある。<br />　サイトの掲示板や日記などにおいて、研究計画についてある程度述べたので、それについてまとめ、期日や使用する参考文献などを調べて（現在の技術では家にいながらにしてそれらの作業が行えるので有難い。）、述べていく。<br />　最終的には計画表のようなものもexel等を使用して作り上げるつもり。 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2006-06-18T21:10:11+09:00</dc:date>
<dc:creator>桃井富範</dc:creator>
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